Q43.差別とは何か?

A.生物学への無知が生む可能性の剥奪

 嫌悪や怒りなどの感情に従って行動すると、時に他人に対して意図せずして差別することがあります。差別とは何か、それはどうすれば減らすことができるのでしょうか?
 たとえば、ある人が○○が嫌いであるとします。この人が、わたしの家には○○は絶対に足を入れさせないとしても、それは差別にはなりません。個人の好み、自由だからです。
 しかし、会社の人事担当が○○は嫌いだから入社させないとすれば、これは差別となるでしょう。この違いは公共性が大きいか小さいかということです。
 これは、個人的なことと公共の間に連続性があるため微妙になります。いったいどの程度の規模から公共性があると判定するのかが問題となるからです。
 たとえば、ある人が道で「俺は○○が大嫌いだ」と叫んでも大きな問題にはなりませんが、その人が国家首相だったら大問題になります。首相の発言には力があり、その該当する○○の可能性を奪うことになるからです。
 公共性の度合いは、その影響力の大きさのことです。影響力が大きくなることでは、それだけ自由は失われます。なぜなら、影響力が大きければ、それだけ他人の自由を奪う可能性があるからです。
 法的な地位や権限、あるいは本人の意志に関係なく、結果としての影響力です。首相でなくとも芸能人でも問題になりますし、一般人でもアルファブロガーなら問題です。
 生物学的に違いがあると認められる差異に基づいて待遇を変えることは差別ではありません。そのため、何が違っていて何が同じであるのか理解せずに差別を無くすことはできません。
 差別とは"可能性の剥奪"です。できるはずのことをできなくしてしまうのが差別なのです。従ってどんな可能性があるのかを知らなくてはなりません。これは自然科学、特に生物学の知識がなくてはならない部分です。
 未成年が酒を飲むことが許されないのは未成年差別でしょうか?
 もちろん未成年の身体的未発達のため身体にダメージを与えるという生物学の知識がありますから、差別ではないとみなされます。酒を飲むことで、むしろその未成年の可能性が剥奪されるから飲酒が許されないのです。
 女性差別も、ある能力において男女差がないと判明しているのに、それを無視することで、女性の可能性を奪っているから差別なのです。
 ですから実際に能力差がある部分について、たとえばオリンピックの競技種目はそれぞれ男女に分かれていますが、これが差別ではないのは、身体運動能力には差があると生物学で認められているからです。
 性差別、部落差別、人種差別、民族差別……、すべては生物学の正しい知識があればこそ、間違っていることが理解できるのです。差別に対する教育とは、生物学を正しく学ぶということなのです。