Q99.主観世界とは何か?

A.主観世界とは宇宙と身体の関係

 しかし、私たちは同じ対象について同じように知覚するとは限りません。望遠鏡で遠くを見たり、顕微鏡で小さなものを見ると、肉眼より詳しく現実世界が見えます。では、どの見え方が真実なのでしょうか? どちらかが誤りなのでしょうか?
 三角定規は三角形です。しかし顕微鏡で詳しく見ると、とてもデコボコしていて三角形には見えません。三角定規は三角形ではなかったのでしょうか?
 そうではないのです。三角形というのは、三角形に関連する行為の集合体なのです。一例を挙げれば、正三角形ならすき間なく敷き詰めることができます。
 しかし、顕微鏡で見た三角定規は三角形ではありません。顕微鏡で見ていれば、隙間なく敷き詰めたつもりでもすき間だらけです。すなわち、関連する行為が違うのです。
 物理学では、物質の究極を求めます。分子は原子で構成され、さらに原子はクオークで構成されるとされます。こうしたより究極の粒子が発見されるというのはどういうことでしょうか?
 それはさらに細かく対応できるようになったということです。原子が究極の粒子であると考えられていたときは、それ以上細かく行為できないということです。原子一つには一つの行為しかできないということです。それがクオークで構成されるとわかるということは、さらに行為を分けることができることです。
 同じ対象でも感覚器官やその補助器官(望遠鏡や顕微鏡)が違うと知覚は全く別のものとなります。知覚に対応しているのは対象ではなく、知覚する者の行為なのです。私たちが感覚器官から受け取る信号から我々が知るのは対象ではなく、自己の対応行為であり、感じ取っているものもまた対象ではなく行為なのです。
 これは対象よりも行為の方がより細かく根源的であることを示します。対象は行為により構成されているのです。私たちは自らの行為を感じ、その行為の組み合わせを利用して対象を特定するのです。
 匂いという感覚は人類ではあまり発達しておらず、8種類程度しか区別できません。ところが訓練された調香師は6000種類もの香りを区別できるといいます。これも、それにより区別する必然性があり、結びつく行為が異なるためです。
 ある対象ではなく行為を感じるというのは直感に反することです。しかし、特殊な状況ではそれがはっきりとします。
 滝の錯覚というのがあります。滝を長時間見た後に違うものを見ると、すべてが上向きに動いて見えるのです。しかし、そのとき目に映っているものには変化がありません。環境からの知覚は何一つ変化していないのに、ただ全体が上に動いているということだけを感じるのです。ここでは、知覚対象抜きの動きの感覚のみがあります。
 あるいは盲視という現象があります。
 脳の障害により、視野の半分が見えず認識できない状態があります。そこに物を見せても何があるがいうことができず、質問しても何も見えないと報告します。ところが、でたらめでいいから物のある場所を指さすように求めると、正しく物のある位置を指さすことができるのです。何かを感じているわけです。
 滝の錯覚と盲視、これらは動きの感覚を感じているのであり、眼球の運動連合野が活性化しているのだと考えられます。対象のない、動きの感覚、行為のみを感じる例といえるでしょう。
 私たちの意識を構成する意識世界の原子は、動きの感覚=運動イメージ=行為であるということができます。私たちが感じるのは行為であり、宇宙と身体――すなわち世界と世界へ作用する装置との関係なのです。
 この考え方は、既に知られている学問上の考え方と一致します。
 一つは、知覚心理学者のギブソンアフォーダンスです。アフォーダンスaffordanceとはaffordされるもの、与えられるものという意味です。ギブソンは、椅子を見たときその形を知覚するのではなく、椅子から与えられるもの、「座ること」を知覚すると考えました。ある対象を知覚したというとき、その知覚を構成するのは行為だというわけです。
 また、分析哲学フレーゲは、言葉の意味には、指し示す対象以外に意義というものがあるとしました。明けの明星と宵の明星はともに金星を指す言葉ですが、違う呼び方です。この二つには何か意味の違いがあると考えそれを意義と呼んだのです。
 行為こそ、フレーゲの意義であり、ギブソンアフォーダンスであるといえるでしょう。 
 科学哲学の議論に、対象が実在するか、というものがあります。科学の観察対象である電子やクォークなどは実在しているのかと。科学哲学者のイアン・ハッキングは、操作可能性があるものが実在といえるとしているのです。
 ここまでに述べたように、対象の同一性がそれを生み出す行為により決められている考えるなら全く当然のことです。操作可能性そのものが対象だからです。