Q84.思考の集中力はどのように生まれたか?

A.2つの感覚システムが役割分担をした

 脳が大きくなったのは、それが自然淘汰上で有利にはたらいたからです。類人猿でも脳は大きいが人間はさらに大きい。しかし、体のバランス、運動能力、エネルギー消費からいえば、脳は小さい方が邪魔にならなくて便利はずです。脳が大きいということは、それ以上の効果がなくてはなりません。
 人間にとって重要な感覚情報は視覚と聴覚です。二つの有力な情報源があります。他の動物はそうではありません。ほとんどの動物は一つの感覚に偏重しています。視覚にたよる動物は聴覚が発達していないし、聴覚にたよる動物は視覚が発達していないのです。これが脳の発達のカギとなります。
 脳の機能は感覚を行動へと変換することです。一つの感覚を中心とする動物では、環境の情報入力を行動へと変換するとそのことだけで手いっぱいであり、他のことができません。
 人間の場合、重要な感覚が二つ発達しています。そのため、視覚からのルートで情報収集して行動し、聴覚から行動へのルートでコミュニケーションや思考することができます。聴覚から行動へのルートが、本来とは異なる作業のために転用されたのです。聴覚系は感覚のためというより思考のための存在へと変化したのです。そのため、車の運転をしながら会話することができるのです。
 人類の祖先は、森から草原へ移住しました。森と草原では環境が異なります。草原は視界の広い世界ですが、うっそうとした森林では見通しが悪く聴覚情報が重要です。絶えず音に注意しなければならない環境であり、聴覚でものを考えるのが難しいのです。耳をすまして音に集中すると人間は無心になります。逆に、考え事をしていると、人の言うことは聞こえません。そのため、聾唖の人々はかつての原始的な環境──近年のような整えられた教育環境でない──では、知的障害と思われることが多かったのです。
 森に比べると草原では視覚情報の価値が相対的に高くなります。草原は耳より目であるので、聴覚系の役目に空白ができます。その聴覚系の余裕を利用し、そこにコミュニケーションと思考を発達させたのです。そして、それが脳の巨大化を要求したのです。
 言語は聴覚から行動を生み出すものです。さらに、コミュニケーションのため、視覚を聴覚情報に変換する必要もあります。現代ではさらに文字があります。聴覚を視覚情報に変換する必要もあるのです。
 それまでの動物はある一つの感覚と行動という一対一の関係ですが、人類では視覚、聴覚、行動の三角関係が成立しているのです。
 イルカやクジラは人類より複雑で大きな脳を持っていますが、人類より賢いとは考えられていません。彼らは目が悪く、聴覚で見ているためです。
 他の動物では、鳥類は視覚が情報収集で、聴覚はコミュニケーションです。鳥類は飛ぶため重くなれず脳は小さいままですが、カラスなどの賢さは脳の大きさを考えれば驚異的といえるでしょう。道具の使用能力はチンパンジー以上という研究者もいます。
 鳥類の知能が予想以上に高いことを示したのが、ペパーバーグが研究するヨウム(ハイイロオウム)のアレックスです。アレックスは言葉(もちろん英語)を話すことができるのです。一語文が多いのですが、ときに2語文以上のこともあり、相当な知能といえます。
 言語、聴覚系のルートが環境から独立することにより、人間は考えにふけることが可能になりました。考え事をして悩んでいても、もはやまわりがまったく見えなくなることはないのです。
 そこで、前頭前野にワーキングメモリが誕生します。ループ構造の情報をより強く持続的に循環させるシステムです。これにより、深く考える集中力が生まれたのです。
 脳はもともと一方通行ですから、感覚から運動への情報は流れやすいが、逆は弱い。その弱さをおぎない増幅して感覚連合野へ送り返すのがワーキングメモリです。オートレセプター──ニューロンの過剰な発火を抑える機構──が欠如した細胞が前頭葉にあるのはこのためです。
 脳が大きくなった物理的理由は、頭蓋骨が柔らかく薄くなったためです。それにより脳の大きさに合わせてふくらむことができます。頭蓋骨が柔らかいと、それだけ防御が弱まります。その不利よりも、ワーキングメモリによる深く考える集中力、これによる有利さが上回ったのです。
 さらに、ワーキングメモリが強くなると、同時に異なる情報を保留できるようになります。たくさんの情報の循環をそのまま維持できるのです。そうなると、その情報同士を組み合わせて考えることができます。足したり、引いたり、あるいは演繹、帰納のような思考ができます。
 人類以外の動物は、一つのことに集中して考え続けるということはできません。どんなに落ち着きのない人間でも、チンパンジーよりも遙かに沈着なのです。