Q5.一時記憶とは何か?

【一時記憶】海馬を通るループ回路の記憶

 記憶において最も重要と考えられる器官に、海馬(図1、2を参照)があります。脳内出血などで左右の海馬の機能が失われると、新しいことが記憶できなくなるのです。
 海馬を左右ともに障害された患者に会うとします。患者に異常は感じられず、会話もふつうです。しかし、いったん部屋を出てから再び会うと、相手はもはやあなたのことを覚えていません。あいさつからすべてを繰り返すことになるのです。
 海馬を損傷すると記憶できなくなるだけではなく、最近の記憶も失われます。その範囲は数年分ぐらいですが一定ではありません。
 しかし、古い記憶はそのまま残ります。子供のころのことや日常生活に必要な記憶などは残っているのです。すなわち、古い記憶は海馬にはないのです。
 どんな記憶でも最初は最近の記憶ですから、海馬に一度蓄えられた記憶がその他の場所へと移動するということになります。
 この本では、こうした長期記憶へと移行する前の海馬に蓄えられている記憶を、一時記憶と呼ぶこととします。
 海馬は、感覚連合野から信号を受け取り、前頭前野や感覚連合野へと信号を返しています。海馬の記憶作用とはその信号の通過パターンの保存です。
 海馬は、信号が通ると、通ったところが流れやすくなることがわかっています。すなわち、何度も反復されて使われたルートは、信号が流れやすくなります。これが一時記憶と考えられます。
 これがどうして二つの事柄の結び付きになるのか、「ほん」と「book」が同じ意味であることを覚えるときの変化を説明しましょう。
 まず一つの信号「ほん」が入力されます。その信号は感覚連合野から海馬を通って感覚連合野に帰ってきて、「ほん」と再入力されます。
 次に二つ目の信号「book」が、感覚連合野から海馬を通って感覚連合野に帰って来ます。このとき、海馬の中で「book」も「ほん」のコースの近くを通ります。そして、一度通ったコースは流れやすくなっていますから、「book」の信号の一部は「ほん」のコースに入ってしまい、「ほん」と再入力されます。ただし、ほとんどは、そのまま「book」と再入力されます。
 次に、「ほん」と入力すると、同じように「book」となるものと「ほん」となるものができます。
 これを時間を空けずに繰り返すと、海馬の中で混線が大きくなり固定されます。その結果、「ほん」から「ほん」に帰らずに「book」になってしまい、「book」と入力したものが「ほん」に帰ってしまいます。そして、「ほん」は「book」で、「book」は「ほん」という情報変換のパターンが定着することになるのです。
 記憶のループは一周するのに二回海馬を通ります。これは一つの輪ゴムを二重にした状態に似ています。8の字を真ん中で折り畳んだような形になりますが、輪ゴムは一つですから、一つのループになるわけです。これが基本的な記憶を作る方法なのです。
 三者択一すると答えやすくなったり、答えを見れば思い出せたりする理由は、これで説明できます。ループの一部が欠けていたり弱ったりするためなのです。思い出せそうと感じるのは、思い出そうとする変換の逆コースが健在なため、変換できないものの反応だけは可能なためです。ですから、その欠けた部分をおぎなうことのできる情報を得ると思い出せるのです。三者択一にすると思い出せるのは、その情報によってループが完成するからなのです。
 たとえば、ある人が「book」=「ほん」と覚えたとします。そして「book」→「ほん」のコースが弱っているとします。このとき「book」を知覚しても「ほん」になりません。しかし、「book」→「book」のパターンが残っているので、「bookという言葉は聞いたことがある」と感じます。このとき、三者択一にし「ほん」「かみ」「き」から選ばせると、「ほん」のとき、「ほん」→「book」が反応し、思い出すのです。
 日本人ならば、漢字の記憶でループの特徴がよく現れます。漢字は読めても書けないことがしばしばあります。知ってるはずなのに書けないということが珍しくありません。これは、漢字の記憶のループのうち、読むという視覚から音声への変換コースが容易なのに、書くという音声から視覚へのコースが記憶しにくいからなのです。