Q4.記憶は何種類あるか?

回路の種類で記憶は7つに分かれる

 記憶というと、すぐに思い浮かぶのは英単語の暗記のようなものです。しかし、実は記憶の種類は一つではなく複数あるのです。そして、一つ一つが異なる方法で、異なる脳の部分により記憶されています。
 記憶の分類は研究者により異なり、呼び方もまた異なっています。ここでは、記憶を脳の回路別に分類することで、七つに分類して考えます。それは、一時記憶、エピソード記憶意味記憶、運動性記憶、プライミング効果、ワーキングメモリ、感情記憶です。
 これら記憶は、それぞれ脳の異なる場所で行われています。記憶すべき対象の特性にあわせていろいろなシステムを発達させたのです。
 すべての記憶システムは、同時に活動します。情報を選別して各記憶システムへ送るのではなく、すべての記憶システムがそれぞれに記憶しようとするのです。どの記憶システムも記憶しようとするのですが、それぞれ得意とする記憶内容があるため、結果として異なる内容が記憶されるようになっています。
 これら記憶システムは脳にあります。脳のしくみは、入力された情報を変換して出力することですから、記憶とは何らかの情報を他の情報へ変換するパターンの記録のことになります。入力と出力の変換を記録することです。
 しかし言葉の記憶、たとえば英語の勉強でbookが本であると覚えるような記憶は、二つの事柄の結びつきを保存することです。そしてそのとき、逆の変換、本がbookであることも覚えます。二つの事柄の結びつきが双方向であるということです。
 脳の配線であるニューロンは一方通行です。決まった方向にしか信号を送りません。ですから、双方向に記憶するにはループを作ることになります。言葉を記憶するには、脳細胞で信号の循環するループを作り出すということになるのです。
 7つの記憶システムも、入力から出力への変換を記録する線の記憶と、ループを作る二つの結び付きによる記憶に分けられます。
 運動性記憶、プライミング効果、感情記憶は線の記憶で、一時記憶、エピソード記憶意味記憶、ワーキングメモリはループの記憶です。
 次に、それぞれ記憶について順番に解説していきます。ただしワーキングメモリは第3章で、感情記憶は第4章で扱います。

Q5.一時記憶とは何か?

【一時記憶】海馬を通るループ回路の記憶

 記憶において最も重要と考えられる器官に、海馬(図1、2を参照)があります。脳内出血などで左右の海馬の機能が失われると、新しいことが記憶できなくなるのです。
 海馬を左右ともに障害された患者に会うとします。患者に異常は感じられず、会話もふつうです。しかし、いったん部屋を出てから再び会うと、相手はもはやあなたのことを覚えていません。あいさつからすべてを繰り返すことになるのです。
 海馬を損傷すると記憶できなくなるだけではなく、最近の記憶も失われます。その範囲は数年分ぐらいですが一定ではありません。
 しかし、古い記憶はそのまま残ります。子供のころのことや日常生活に必要な記憶などは残っているのです。すなわち、古い記憶は海馬にはないのです。
 どんな記憶でも最初は最近の記憶ですから、海馬に一度蓄えられた記憶がその他の場所へと移動するということになります。
 この本では、こうした長期記憶へと移行する前の海馬に蓄えられている記憶を、一時記憶と呼ぶこととします。
 海馬は、感覚連合野から信号を受け取り、前頭前野や感覚連合野へと信号を返しています。海馬の記憶作用とはその信号の通過パターンの保存です。
 海馬は、信号が通ると、通ったところが流れやすくなることがわかっています。すなわち、何度も反復されて使われたルートは、信号が流れやすくなります。これが一時記憶と考えられます。
 これがどうして二つの事柄の結び付きになるのか、「ほん」と「book」が同じ意味であることを覚えるときの変化を説明しましょう。
 まず一つの信号「ほん」が入力されます。その信号は感覚連合野から海馬を通って感覚連合野に帰ってきて、「ほん」と再入力されます。
 次に二つ目の信号「book」が、感覚連合野から海馬を通って感覚連合野に帰って来ます。このとき、海馬の中で「book」も「ほん」のコースの近くを通ります。そして、一度通ったコースは流れやすくなっていますから、「book」の信号の一部は「ほん」のコースに入ってしまい、「ほん」と再入力されます。ただし、ほとんどは、そのまま「book」と再入力されます。
 次に、「ほん」と入力すると、同じように「book」となるものと「ほん」となるものができます。
 これを時間を空けずに繰り返すと、海馬の中で混線が大きくなり固定されます。その結果、「ほん」から「ほん」に帰らずに「book」になってしまい、「book」と入力したものが「ほん」に帰ってしまいます。そして、「ほん」は「book」で、「book」は「ほん」という情報変換のパターンが定着することになるのです。
 記憶のループは一周するのに二回海馬を通ります。これは一つの輪ゴムを二重にした状態に似ています。8の字を真ん中で折り畳んだような形になりますが、輪ゴムは一つですから、一つのループになるわけです。これが基本的な記憶を作る方法なのです。
 三者択一すると答えやすくなったり、答えを見れば思い出せたりする理由は、これで説明できます。ループの一部が欠けていたり弱ったりするためなのです。思い出せそうと感じるのは、思い出そうとする変換の逆コースが健在なため、変換できないものの反応だけは可能なためです。ですから、その欠けた部分をおぎなうことのできる情報を得ると思い出せるのです。三者択一にすると思い出せるのは、その情報によってループが完成するからなのです。
 たとえば、ある人が「book」=「ほん」と覚えたとします。そして「book」→「ほん」のコースが弱っているとします。このとき「book」を知覚しても「ほん」になりません。しかし、「book」→「book」のパターンが残っているので、「bookという言葉は聞いたことがある」と感じます。このとき、三者択一にし「ほん」「かみ」「き」から選ばせると、「ほん」のとき、「ほん」→「book」が反応し、思い出すのです。
 日本人ならば、漢字の記憶でループの特徴がよく現れます。漢字は読めても書けないことがしばしばあります。知ってるはずなのに書けないということが珍しくありません。これは、漢字の記憶のループのうち、読むという視覚から音声への変換コースが容易なのに、書くという音声から視覚へのコースが記憶しにくいからなのです。

Q6.【エピソード記憶】とは何か?

エピソード記憶】大脳皮質の連鎖ループの記憶

 海馬の一時記憶は、その後、各連合野に移動し、半永久的な記憶になります。その半永久的な記憶は、エピソード記憶意味記憶に分類されます。
 エピソード記憶は、過去の出来事の記憶です。個人的な経験として意識的に思い出すことができるもので、思い出の記憶ともいえるでしょう。修学旅行の思い出、初恋の思い出などがエピソード記憶です。
 エピソード記憶は、扁桃体が関与しています。扁桃体は、海馬と似たはたらきもしています。ただ、海馬と異なるのは、感情を生むような情報にたいしてのみはたらくことです。扁桃体は海馬より覚える力は弱いのですが、一度覚えると海馬より強く残ります。もちろん、その場合でも海馬もはたらいており、それを扁桃体が補助しているのです。
 エピソード記憶は、個体認識のために発達した記憶と考えられます。人間は感情の思うままにふるまうと、集団生活が成り立ちません。エピソード記憶は、かつて感情的にふるまったときのことを思い出すことにより、行動を制御するのです。主に人間同士の関係を記憶するのです。
 そのため、エピソード記憶は匂いと直結しています。哺乳動物は匂いをつけることによりテリトリーを示し自分の存在をアピールしていましたが、その名残があるのです。
 たとえば、田舎の匂い──森や線香の匂いなどを嗅ぐと田舎の思い出がよみがえります。嗅覚野は直接、扁桃体につながっているのです。(図2)
 エピソード記憶は、感情に直結しているため、おもしろい現象があります。音楽を聞くとその音楽をよく聞いたころの思い出がよみがえるのです。若いころに聴いた懐かしい音楽は、青春の懐かしい思い出をよみがえらせるのです。

Q7.意味記憶とは何か?

意味記憶】大脳皮質の単ループの記憶

 長期記憶のもう一つが意味記憶です。
 意味記憶とは、物とその名称などの組み合わせの記憶です。最も記憶らしい記憶といえるでしょう。いつ覚えたのか思い出せないが、知識として知っているものです。
 この意味記憶こそ、多くの人がもっと強くしたいと願うものでしょう。効率よく意味記憶できれば、勉強や仕事がどれほどはかどることでしょうか。ここからは、その重要なテーマに関連したことが続きますからお見逃しなきよう。
 どんな意味記憶も、最初はエピソード記憶として始まります。新しい英単語を覚えたときも、覚えた五分後ではまだエピソード記憶として、どんなふうに暗記したか思い出せるでしょう。その後、これらは反復することにより記憶が強化されます。
 弱いエピソード記憶が、その一部分を反復することにより共通性のない部分が失われ、意味記憶へと変化するのです。
 ですから、エピソード記憶意味記憶ははっきりと区別できるものではなく、その中間的なものも存在します。この他、感情記憶とエピソード記憶、一時記憶とエピソード記憶、一時記憶と意味記憶などの間には明快な境界線はありません。それは、次に述べる長期記憶の形成のしくみに理由があります。
 こうしたエピソード記憶意味記憶はどのようにして、海馬から連合野へと移動するのでしょうか。
 それには、記憶を失うとどうなるのかがヒントをくれます。
 記憶喪失になると、数年前から現在までの記憶が失われることがあります。そのときにより幅があります。一年のときもあれば三年のときもあるし、一週間のこともあるようです。いずれも事故の時点から逆上って記憶を失うのであって、むかしの記憶だけ忘れたとか、最近と子供時分は覚えているが四〜六年前の記憶だけ失うとか、そういうようなことは起こりません。
 そして、回復するときも、記憶は古いものから順に回復する傾向があります。これは不思議なことです。人の記憶の全体平均を考えれば、新しいものの方が強いはずなのです。古くて弱った記憶が、新しくて強い記憶より先に回復するのです。
 また、老人になると、むかしのことはよく覚えているのに最近のことは忘れるようになります。
 これらのことは、記憶にはなんらかの形で時間が識別できるようになっていることを示しています。
 記憶をメモのようなものと考えましょう。机の上に乱雑に積み上げられたメモ。そのメモを書いたのがいつかわかるように整理するには、どんな方法があるでしょうか。
 それは、二つ考えられます。メモの中に日付を記録しておくか、メモを時間別に並べて保存するかです。
 日付を記録する方法だと、記憶喪失のとき、そのほとんどが時間に関係なくでたらめに失われるはずで事実と合致しません。
 記憶の時間勾配については、新しい記憶は結合が弱く、時間とともに強くなっていくと考える説があります。古い記憶は強くなっているので、失われると考えるわけです。しかしこれだと、「古くて弱い記憶」と「新しくて印象的な記憶」の区別ができません。また、ニューロン結合の強化に数年もかかるというのはかなり不自然です。後に述べる、同じく大脳皮質の記憶であるプライミングは、一瞬で記憶が成立し、期間は数年に及ぶのですから。
 すなわち、脳にはそもそも強度とは別に時間がコードされていなくてはおかしいのです。
 方法はひとつしかありません。時間別に並べられていると考えるよりないのです。脳の中で、最近の記憶の隣にそれより少し前の記憶があり、その隣にはそれ以前のものが、一番遠くには最も古いものがあるとしなければなりません。
 一時記憶は海馬にあることがわかっています。子供のころの古い記憶などは大脳新皮質にあります。時間別に並べられているのなら、その途中のものはその間の部分にあると考えられます。一つの記憶は時間とともに古いものになっていきます。海馬から大脳新皮質へと少しずつ移動していくのです。海馬は脳の奥にあり、大脳新皮質は脳の外側ですから、古い記憶は外側──脳の表面に、新しい記憶は中心部奥深くにあることになります。
 どのようにすれば、このように記憶を並べることができるでしょうか。
 海馬が他の部分とどのように結び付いているかを見てみましょう。図2を参照してください。感覚連合野と海馬にはループがあって循環しています。そして、海馬のニューロンは、一度信号が流れると、シナプスの信号を送り出す効率がよくなり、信号が強くなります。
 そこで考えられるのが次のようなシステムです。海馬へ信号を送るニューロンは、その信号の流れやすさを軸索(ニューロンが信号を送り出す触手のようなもの)先に延ばしてコースを短縮して、構造的な流れやすさに変換するということです。それは、ニューロンが、信号を送る次のニューロンの体をつたって伸びていくのです。ただし、軸索ではなく樹状突起(軸索の反対側で、軸索がひっつく所)の方が伸びるか、あるいはその両方の可能性もあります。
 ニューロンは、細胞体から遠い部分からの入力の影響が弱く、細胞体に近ければそれだけ影響が強くなっています。最も強いのは軸索の先端です。簡単にいうと、信号の出口に近いほど信号も強くなるのです。だから、手さぐりするようにつたって行けば、自然に信号の流れやすさに変換できるのです。
 このようにして、化学的な信号の流れやすさを、配線による信号の流れやすさに変換する。結果として、コースが少しずつショートカットされていき、ついには、海馬抜きで感覚連合野同士の連結になるまで移動していく。海馬−感覚連合野の大きなループが、感覚連合野−感覚連合野の小さなループへと縮むわけです。
 当然、記憶するたびに海馬へ結びつくニューロンが減ってしまいます。しかし、海馬には細胞分裂ができる神経幹細胞があり、ニューロンが補充されます。また、移動に失敗すると軸索をひっこめて元の位置に戻るものもあり、それが忘れるということです。
 連合野ニューロンは、なぜ次のニューロンをとばして、その次のニューロンに触手をのばそうとするのでしょう。
 連合野ニューロンは、信号が一周して戻ってくるように結ばれています。次のニューロンをとばして結びつくと輪が小さくなるので、信号がすぐに自分に戻ってくるようになります。ニューロンは信号を受け取ったり送ったりすることにより栄養を得ていますので、輪を小さくすると次のニューロンの栄養分を横取りすることになります。この栄養の独占行為が、長期記憶、意味記憶をつくるのです。ニューロン同士が自然淘汰のような原理で競争しているのです。ニューロンの闘いが記憶を作るのです。
 大事なことは、ニューロンの軸索は枝分かれしているので、一つのニューロンと一つのニューロンの間にも多数のコースがあるということです。自然淘汰の原理で、最も使用されないコースは除去され、その枝部分は別な部分を探してコースを作る。すると、ニューロンの情報伝達は出力に近いほど強いのですから、自然にループを縮小するように構造を変化させることとなります。
 数年もかけて海馬から皮質へと移動するのですから、極めてゆっくりとした変化です。脳の発達は植物を育てているようなものといえるでしょう。水や栄養に相当するのが信号といえるのです。
 このため、一時記憶が長期記憶に変化するのに必要な時間は脳の大きさで異なります。海馬の障害による逆向性健忘――すなわち記憶喪失の期間は、ラットで二週間、サルで一カ月、人類では半年から数年と、脳が大きくなるほど長くなるのです。

Q8.運動性記憶とは何か?

【運動性記憶】エラー消去方式の線の記憶

 運動性記憶は、ピアノを弾く、自転車に乗る、ワープロを打つなど、体を動かし方を覚えることです。反射的な、いわゆる体で覚えるというものに相当します。
 運動性記憶は、試行錯誤により作られる訓練の記憶といえます。
 脳の変化を説明しましょう。感覚器官からの入力にたいして、とりあえず何らかの反応を示します。もし、それが正しければ──その行動によって快感が生まれれば、そのルートが強化されて流れやすくなり、間違い──不快を感じると弱められて流れにくくなります。このようにして正しい動きを身につけるようになります。
 こうしたルートは小脳、運動連合野大脳基底核にあります。小脳には、他の部分とは少し異なるシステムがあります。失敗したとき、使われたルートを逆上り、間違ったルートを弱めるための細胞があるのです。
 そのため、運動性記憶はなんども繰り返す必要があります。しかも、間違うことが必要です。間違ったことに恥ずかしさなどを感じて、その失敗を一つ一つつぶしていかなければなりません。体育会系のクラブが、かつてスパルタ式が多かったのは、この運動性記憶の原理に近いからでしょう。
 運動性記憶の特徴は、一度覚えるとその後はほとんど忘れることはないことです。あらゆる記憶の中で最も忘却されにくいのです。自転車に乗れるようになった人が、乗り方を忘れることなどはないわけです。
 運動性記憶は、脳の中ではループでなく、線の変換として存在します。そして、実際に記憶を引き出すべき環境に当てはまると、環境と組合わさったループが完成し、記憶がよみがえるようにできています。だから、自転車の乗り方を言葉で表現できなくとも、自転車に乗れば思い出すことができるし、ピアノの弾き方もピアノを前にすれば思い出すことができるのです。
 漢字の筆記も運動性記憶が含まれています。そのため、頭の中で思い出すことのできない漢字が、鉛筆をもってみると書くことができる場合があります。
 小脳は、実際の運動だけでなく、運動のイメージだけでも活動します。運動のメンタルトレーニングなどは小脳なのです。
 また、言語にも活躍します。複雑な文法や動詞などをイメージすると小脳が活動するのです。
 このことは、文法というのは正しい言い方を覚えるというより間違った言い方を消去すること、を意味します。
 思い浮かべてください。日常の会話で、誰かが変な言い方をするとすぐに気が付きますが、正しい言い方のときは何も感じません。間違った言い方を間違っていると感じるから、間違いを回避できるのです。
 外国語の学習では、よく間違うこと自体が必要なのです。日本人は、よく考えて間違わないように外国語を話そうとしますが、これでは上達しません。何も考えずに思いつくまま話して訂正されることが必要なのです。
 逆説的ですが、どうすれば効率良くたくさん間違えることのできる環境を作ることができるかが上達の条件となります。
 実際、授業で問題が出たとき、絶対の自信の解答を提出したり発言するより、自信のない間違っているような気がすることを出す方がよい考えです。
 なぜなら、絶対に自信のある答えを出して正解だったとしても自分の知識に付け加えられるものはありません。しかし、自信のない答えを出して不正解なら、訂正されることにより新しい知識が得られるのです。正解でも、それが間違いない正解であると確定させることができます。

Q9.プライミング効果とは何か?

【直感=プライミング効果】大脳皮質の組み合わせの線の記憶

 プライミング効果とは聞きなれない言葉と思います。プライミング効果とは、意識させずに情報を提示することにより、次の作業の判断が速くなったり遅くなったり、あるいは正確になったり不正確になったりする作用のことです。
 意識させないとは、意識できないほど非常に短い時間だけ映像を見せたり、それ覚える以外の作業するように命じて情報を与えたりするのです。それは、順番に単語を見せて、好きか嫌いかを判定してもらった後、単語を思い出してもらうといったことです。
 海馬に比べると非常に弱いものですが、一度流れたルートが強化される性質は感覚連合野にもあります。Aという入力に続いてBを入力すると、Bの一部がAに変換されます。これがプライミング効果となります。
 プライミング効果の典型例が、野球の配球です。ツーストライク・ノーボールのカウントでは、高めのストレートのボール球を投げることが定跡です。そして、決め球はボールになるフォークか、外へ逃げるスライダーとなります。これがわかりきっているにもかかわらず空振り三振することが多いのです。
 これは、プライミング効果がストレートのボールの軌道を記憶してしまうためです。そのため、変化球と予想していてもボールの動きがストレートに見えてしまうのです。
 プライミング効果も、運動性記憶と同じく脳ではループではなく線であり、実際に記憶を引き出すべき環境に当てはまると、環境と組合わさった輪が完成し、記憶がよみがえります。そのため、変化球につられないようになるには、何回も実際に見て慣れる以外にありません。
 日常生活にもプライミング効果はあります。人はときに、なぜだかわからないがそのような気がして、実際にその通りになることがあります。そして、聞かれると直感、霊感がはたらいたからと説明します。これもおそらくはプライミング効果と考えられます。日常生活のプライミング効果では、いつどのように記憶したか覚えていないのです。また、プライミング効果は、ループではないからどのようにして判断したかを思い出すことはできません。ただ、その同じか似た状況においてのみ再現されます。そうしたことは、直感として感じられるのです。

Q10.言葉は脳でどのようにはたらいているか?

A.言葉は思考のループを循環する

 わたしたちは、意味記憶として獲得した言葉を使って、頭の中で考えを巡らすことができます。
 この言葉で考えるときの脳のはたらきを述べましょう。これも思考ですから、既に述べたように、前頭前野と聴覚連合野での信号の循環のことです。そこで問題となるのは、どのように循環するかです。
 近年の脳科学の発達により、かなり細かくわかるようになりました。
 たとえば「心を知ると得をする」という言葉を話すとどうなるでしょうか。
 まず、「心」に対応するニューロンの発火パターンが聴覚連合野に現れます。それが前頭前野に伝わり「心、知る」のパターンを生みます。その「心、知る」は二手に分かれます。一つは聴覚連合野に帰ります。もう一つは、運動連合野で「を」と「と」が追加されて、「心を知ると」と発音することになります。
 聴覚連合野に帰ってきた「心、知る」は、「得」のパターンに変化します。「得」は、前頭前野に行き「得、する」となり、運動連合野で「を」が追加され、「得をする」と発音することになるのです。
 この文なら、脳で信号が一周半することになります。言葉で考えるときには、およそ動詞の数−〇.五周だけ循環するのです。
 次の文を見てください。
 1.警官が、血まみれになって逃げる犯人を追いかけた。
 2.警官が血まみれになって、逃げる犯人を追いかけた。
 この二つの文章は読点の位置が違うだけですが、意味が違います。そして、脳での作用も違うのです。
 1の文章はループを半周しています。たくさんの情報を聴覚連合野を並べて、前頭葉へ送っています。それにたいし2は、「警官が血まみれになって」「逃げる犯人を追いかけた」の一周半なのです。
 これらは、その言葉にどの程度習熟しているかにも左右されますので、個人個人で微妙な差があります。言い慣れている言葉、あいさつなどは、そのまま一つの動詞化することがあります。
 脳における言語システムで注意すべきなのは、単語から単語には変換されていないということです。単語よりも大きな単位で変換が行われているのです。